九州の山あいに、ガイドブックがまだ見落としている街がある。日田、人吉、阿蘇内牧、竹田——いずれも京都や別府のような象徴を持たず、観光導線の主軸からも外れている。だが、台湾と香港の旅行誌が二〇二五年から二〇二六年にかけて独自に取り上げ始めたのは、この四つの内陸の小都市だった。外国人比率が静かに一〇%を超え始めた小規模な宿。客室の窓が抱えているのは、温泉街の喧騒ではなく、川と森と火山地形の輪郭である。新緑と梅雨の境目に、その街と宿の声を編集部の視点で残しておきたい。

※ 目安価格は公開販売価格の集計に基づく参考値で、実際の予約料金とは異なります。1泊2名利用時の1室あたり料金(税込)です。

由布院の影に隠れた、九州山域の「もうひとつの旅」

九州の観光地図が描いてきた線は、福岡から由布院、別府を経て阿蘇外輪に抜ける弧と、熊本から黒川温泉へ向かう短い枝線の組み合わせだった。京都の次に置かれるのは由布院であり、由布院の次に置かれるのは黒川——その配列が長く固定化されてきた。だが、二〇二五年以降、台湾の旅行誌や香港の小冊子型ガイドが拾い始めたのは、その配列の隙間に落ちている街である。日田、人吉、阿蘇内牧、竹田。県境のひだに沿うように分布するこれらの小都市には、川と林と火山地形が市街の窓から見える距離にあり、それが滞在の余白として機能している。

外国人比率が一〇%を超え始めた宿に共通するのは、決して大規模な英語キャンペーンではない。チェックイン時に渡される紙片に、最寄り駅からの徒歩経路と、夜に開いている小さな食堂の名前が英語で添えられている。それだけの設計が、滞在の体感を変えている。本稿では編集部が三軒を選び、その輪郭を素描する。

1. 川面を抱える窓——山荘 天水(大分・天ヶ瀬温泉)

玖珠川の流れに沿って離れが点在する、19室だけの宿。窓そのものが温泉の一部として設計されている。

Media Picks Score: 95 / 100  19室、旅館。

目安価格 ¥58,000–¥98,000 / 泊(2名1室・通常期)


山荘 天水 — 大分・天ヶ瀬温泉 · 玖珠川を見下ろす露天風呂と離れの客室
PHOTO: 山荘 天水 — 公式サイトを見る →

日田の市街から国道210号を東へ進むと、玖珠川が深い渓谷を作る地点に天ヶ瀬温泉がある。山荘 天水はその崖肌に沿って客室を点在させた、十九室だけの宿である。離れに入ると窓の外は川面で、二十メートル落差の桜滝が遠く見える日もある。露天風呂「滝観庵」は、その滝に対峙するように川の上に張り出している。観光ルートの幹線から外れた立地が、結果として静けさを保ち続けている。

滞在中に分かることは、設計の細部が「窓の外の地形を消さない」方向で一貫しているということだ。客室は十九室、廊下は屋外の渡り廊下で繋がれ、館内のどこを歩いても川の音が遠ざからない。食事は部屋食または個室会席で、大分の山菜と豊後牛が中心。台湾の小冊子型旅行誌が二〇二六年春に「日田の奥にある誰にも教えたくない一軒」として写真とともに紹介したのもこの宿である。公式サイトには英語ページが用意されており、海外からの問い合わせにも対応可能な体制が静かに整えられている。

2. 三万坪の敷地に潜む炭酸泉——宿房 翡翠之庄(大分・長湯温泉)

長湯温泉、三万坪の敷地に十三棟の離れ。日本でも稀少な炭酸泉が、滞在の中心にある。

Media Picks Score: 94 / 100  13室、旅館(離れ型)。

目安価格 ¥43,000–¥73,000 / 泊(2名1室・通常期)


宿房 翡翠之庄 — 大分・長湯温泉 · 三万坪の敷地に点在する離れと炭酸泉
PHOTO: 宿房 翡翠之庄 — 公式サイトを見る →

竹田市の北端、芹川の上流に長湯温泉がある。世界でも数えるほどしかない高濃度炭酸泉の湧出地として、ドイツの温泉地と姉妹提携を結んでいる土地である。宿房 翡翠之庄は、その温泉街から少し離れた高台、約三万坪の敷地に茅葺の本館と十三棟の離れを散在させている。離れにはそれぞれ屋根付きの内湯と露天が付き、隣室の気配は届かない。

炭酸泉は皮膚に細かな気泡をまとわせ、湯の温度より低い体感を残す。長湯温泉が古くから「飲める湯」「療養する湯」として記録されてきたのは、この特殊な水質ゆえである。翡翠之庄の食事は自家菜園の野菜や地元食材を活かした料理で、ワインセラーから選ぶ一杯も滞在に添えられる。香港のライフスタイル誌が二〇二五年秋に「九州、隠れた炭酸泉の小さなリゾート」として取り上げて以降、滞在客に占めるアジア圏インバウンドの比率が静かに上昇しているという。離れの中は、地形が決して見えなくなることのない設計——森と空、そして遠くの久住の稜線が、窓の縁に常に置かれている。

3. 与謝野夫妻が泊まった部屋の今——阿蘇内牧温泉 蘇山郷(熊本・阿蘇市内牧)

阿蘇カルデラの北縁、内牧温泉の老舗。樹齢千年の綾杉で組まれた客室と、24時間入れる源泉。

Media Picks Score: 95 / 100  22室、旅館。

目安価格 ¥26,000–¥58,000 / 泊(2名1室・通常期)


阿蘇内牧温泉 蘇山郷 — 熊本・阿蘇 · 与謝野晶子ゆかりの和の客室と源泉掛け流し
PHOTO: 阿蘇内牧温泉 蘇山郷 — 公式サイトを見る →

阿蘇カルデラの北縁、内牧温泉は黒川温泉ほどには知られていない。だが、明治・大正に文人が好んで滞在した記録が残る、九州山域の古い温泉地のひとつである。蘇山郷はその一角に建つ、二十二室の老舗旅館。創業は昭和二十八年、与謝野鉄幹・晶子夫妻が滞在した客室「杉の間」は、樹齢千年の綾杉で組まれた天井と床柱を今も保っている。源泉は二十四時間入浴可能で、内湯と露天それぞれに別の源泉が引かれている。

滞在中に分かることは、この宿が「阿蘇という固有名詞の重さ」を建物の中で受け止めようとしていることである。新館はモダンな客室にリノベーションされ、英語・中国語繁体字・韓国語の言語切替が公式サイトに整っている。台湾の若い旅行ライターがSNSで「阿蘇外輪を半日歩いた後にこの宿に戻る」体験を綴って以降、平日の海外比率が一段上がったという話を、編集部は地元観光協会から間接的に得た。食事はあか牛の溶岩焼きを中心とした十三品の会席で、季節野菜の炊き合わせは竈で別仕立てになる。観光地化以前の阿蘇の声を、まだここに聞くことができる。

窓の外の地形を消さない、という設計思想

三軒に通底するのは、客室の窓が地形に対して開かれている、ということだった。日田の崖肌、長湯の森と稜線、内牧の阿蘇カルデラ縁。いずれも観光看板で覆われた風景ではなく、その土地が持っている素のフレームである。観光地として整備されきっていない街だからこそ、宿は窓の外を「演出する」のではなく「見えるままに置く」設計を選ぶことができる。アジア圏の旅行誌がこれらの宿を独自に発見し始めた理由は、おそらくここにある。観光導線の濃さに疲れた旅人にとって、地形が見える窓は次の旅の動機になる。

梅雨と新緑の境目、六月の半ばから七月の頭。九州山域は緑が最も濃くなる季節に入る。価格帯はいずれも京都の老舗町家宿の半分前後だが、滞在の密度は決して劣らない。次の旅で京都の次に置く街を選ぶとき、本稿で輪郭を示した四つの小都市の名は、地図の上に静かに残しておく価値がある。

よくある質問

Q. 英語応対はどの程度ですか

A. 三軒とも公式サイトに英語ページを備える。電話応対の英語水準は宿により差があるが、メール・問い合わせフォーム経由のやり取りは英語で完結することが多い。阿蘇内牧温泉 蘇山郷は中国語繁体字と韓国語のサイト切替も用意している。

Q. アクセスは

A. 山荘 天水は博多駅から特急ゆふいんの森+日田乗継で約2時間半、天ヶ瀬駅からタクシー10分。宿房 翡翠之庄は熊本・由布院いずれからもアクセスできるが、車利用が現実的。阿蘇内牧温泉 蘇山郷はJR阿蘇駅から内牧温泉行きバスで商工会前バス停下車、徒歩2分。熊本ICからは国道57号経由で約70分。

Q. ベストシーズンはいつですか

A. 編集部が推すのは新緑から梅雨明けの6月後半から7月、または渓谷紅葉の10月後半から11月前半。冬の久住・阿蘇は積雪があるため運転には注意が要る。

Q. 子連れでも泊まれますか

A. 阿蘇内牧温泉 蘇山郷は家族客の受け入れが比較的柔軟で、添い寝の対応もある。宿房 翡翠之庄と山荘 天水は離れ・客室の構造上、年齢制限を案内している期間があるため、事前確認が望ましい。

Q. 滞在は最低何泊が望ましいですか

A. 移動距離を考えると2泊以上が滞在の体感に合う。3軒を組み合わせる場合は日田→竹田→阿蘇内牧の動線で4泊5日の旅程が成り立つ。

本記事の参考情報

大分県観光情報公式サイト visit-oita.jp — 日田・竹田の観光・温泉情報
熊本県観光サイト くまもっと。 — 阿蘇エリアの観光情報
Wikipedia: 長湯温泉 — 炭酸泉の地理的背景

編集部から

京都の次に置かれる街は、必ずしも別府や黒川である必要はない。日田、人吉、阿蘇内牧、竹田——それぞれの街が抱えている地形と歴史は、二〇二六年の旅にとって新しい意味を持ち始めている。本稿で扱った三軒は、いずれもアジア圏の旅人が独自の文脈で見つけ始めた宿である。窓の外に見えるものが観光看板ではなく地形であるとき、旅は別の輪郭を持つ。次に書きたいのは、人吉と球磨川沿いの宿の話だ。

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