瀬戸内海の多島海に、凪いだ初夏の光が差し込む頃、佐木島の山肌にひとつの輪郭が現れる。デンマークの建築家ビャルケ・インゲルス率いるBIGが日本で初めて完成させた建築〈NOT A HOTEL SETOUCHI〉は、2026年4月1日、広島県三原市の小さな島に開いた。直島・豊島のアート文脈を旅してきた人にとって、これは次の問いになる——島は、アートを「置く」場所から、建築そのものが風景になる場所へと移れるのか。本稿では、海への開口、地域素材の手つき、所有とシェアの境界という三つの視点から、この一軒を建築言語で読み解く。

地形に編み込まれた建築——BIGが佐木島で試みたこと
佐木島は、三原と尾道のあいだ、芸予諸島の入り口に浮かぶ小島である。〈NOT A HOTEL SETOUCHI〉は、その半島部の斜面をまるごと敷地として、海へ向かって下りていく等高線の上に三棟を配した。BIGの建築は世界中で「大胆な幾何学」として語られることが多いが、ここで選ばれたのは突出ではなく沈み込みだった。棟は山肌の角度に沿って身を低くし、屋根のラインは尾根の稜線と競わない。遠景から眺めると、建物は island の地肌と一続きのテクスチャーになっている。
三棟にはそれぞれ「180」「270」「360」という名がある。海と島景をどの角度で切り取るか——その視野の度数が、そのまま棟の性格を決めている。「180」は北端から多島海を一文字に望む和の構え。「270」は中庭にプールを抱え、水に浮かぶような感覚を主題にした棟。「360」は丘の頂に立ち、全方位の眺望を一周させる住居である。観光地の「映えるスポット」ではなく、視野の幾何学そのものが設計の言語になっている点に、この建築の知性がある。

地域素材の手つき——版築・障子・瓦という翻案
この一軒を建築言語で読むとき、最も雄弁なのは素材の選び方である。構造壁には、現地の土をつき固めた版築(rammed earth)が用いられた。地層のような横縞をまとった土の壁は、コンクリートにはない時間の質感を室内に持ち込み、瀬戸内の温暖な光を柔らかく吸う。これはBIGが世界各地で展開してきた金属とガラスの語彙とは対照的で、むしろ土地に根ざした素材へ立ち戻る選択だった。
開口部には、床から天井まで届くガラス面が走る。設計の出発点にあったのは障子——日本の引き戸が持つ「開きながら閉じる」両義性である。ガラスは多島海の光をそのまま招き入れ、同時に島の輪郭で視界を切り取る。屋根に目を移すと、太陽光パネルが在来の瓦のリズムで葺かれている。エネルギーの装置が意匠の一部として景観に編み込まれ、技術と伝統が対立しないことを静かに示している。土・ガラス・瓦——三つの素材が、それぞれ別の方法で「この島であること」を語っている。

海への開口——多島海の光がガラスをどう動かすか
瀬戸内の海は、外洋のような単調な水平線を持たない。大小の島が重なり、潮の干満で光の入射角が一日のうちに何度も変わる。〈NOT A HOTEL SETOUCHI〉のガラス面は、その移ろいを受け止める装置として機能する。朝、東から差す光は土壁に縞を浮かび上がらせ、正午の白い光はプールの水面で砕けて天井へ跳ね返る。西陽の時刻には、島影が長く伸びてガラスの内側まで滑り込み、室内が琥珀色に染まる。建築が固定された彫刻ではなく、光の上演装置であることが、滞在中に分かってくる。
三棟それぞれが視野の度数を変えているのは、この光の体験を多重化するためでもある。「180」では水平に広がる凪の海、「270」では中庭の水を介して反射する空、「360」では刻々と回る全方位の天光——同じ多島海が、棟を変えるだけで別の風景になる。初夏の凪いだ海はとりわけ反射が静かで、ガラスと水と土が一枚の絵のように溶け合う。本稿が季節の軸に「初夏・凪の海」を置いたのは、この一点による。

所有とシェアの境界——「ホテルではない」という名の意味
このブランドの名は〈NOT A HOTEL〉、つまり「ホテルではない」と宣言している。一棟を所有しながら、滞在しない日は他者にひらく——所有とシェアの境界線そのものを設計対象にした滞在モデルである。オーナーは自らの棟に滞在できるだけでなく、国内の他拠点を相互に行き来できる。佐木島の三棟は、すでに所有先が決まっている。つまりここは、不特定多数が一泊ごとに予約する従来型の宿とは設計思想が根本から異なる。一棟全体を一組で占有し、4つのベッドルームに最大8〜10名が滞在する——別荘とリゾートの中間に立つ、新しい滞在の形だ。
滞在中の体験も、この思想の延長にある。各棟にはサウナと屋外の湯、プールや火を囲む中庭が備わり、本土側のクラブハウスを起点に専用クルーザーで島へ渡る。プライベートクルーズ、レストランでのシェフによる食事、カヤックやSUPといった海のアクティビティが、島という閉じた環境のなかで一続きに用意される。建築・地形・運営思想が分かちがたく結びつき、「ホテルではない」という名が単なる修辞ではないことが見えてくる。
具体情報
- 所在地: 広島県三原市・佐木島(芸予諸島)
- アクセス: 本土の専用ラウンジ(須波港周辺)から専用クルーザーで約8分/ヘリコプター利用も選択可
- 棟数: 3棟(「180」「270」「360」)
- 延床面積: 180=707.61㎡/270=745.97㎡/360=785.53㎡(テラス等を含む)
- 客室構成: 各棟4ベッドルーム、定員 180=8名/270・360=各10名
- 設備: 各棟にサウナ・屋外の湯、中庭(プール/火を囲むスペース/日本庭園)、専用クルーザー、本土クラブハウス
- 設計: BIG(ビャルケ・インゲルス・グループ)/日本初の完成建築
- 開業: 2026年4月1日
- 滞在形態: 所有+シェアを前提とした一棟貸しモデル(拠点間の相互利用が可能)
Media Picks Score
92 / 100 — 評価の内訳: 立地(佐木島という離島性と多島海の眺望)/建築(BIG日本初、版築・障子・瓦の翻案)/体験(一棟占有とクルーザー、サウナ・プール)/希少性(所有・シェア型の新世代滞在)/編集適合度(離島・国際ブランド・建築主導という当媒体の関心軸との一致)。開業直後で公開レビューの蓄積は薄く、スコアは建築的・編集的評価を主軸に置いた値である。
よくある質問
Q. 一般の宿泊予約はできますか?
A. 〈NOT A HOTEL SETOUCHI〉は、一棟を所有しながら滞在しない日を他者にひらく「所有+シェア」を前提とした滞在モデルです。従来型の一泊単位の予約とは仕組みが異なり、佐木島の三棟はすでに所有先が決まっています。最新の利用条件は公式サイトで確認できます。
Q. 何名まで滞在できますか?
A. 一棟を一組で占有する形式で、各棟4ベッドルーム。定員は「180」が8名、「270」「360」が各10名です。家族や少人数のグループでの滞在に向いた構成になっています。
Q. 島へのアクセスは?
A. 本土側の専用ラウンジ(須波港周辺)から専用クルーザーで約8分。ヘリコプターでの到着も選択できます。離島ながら、本土からの移動は短時間で完結します。
Q. ベストシーズンはいつですか?
A. 編集部が推すのは、海が凪いで光の反射が最も静かになる初夏です。多島海の島影とガラス面、中庭の水が一枚の絵のように溶け合う時季で、本建築の主題である「光の上演」が最も美しく立ち上がります。
Q. 直島・豊島のアート巡りと組み合わせられますか?
A. 佐木島は芸予諸島に位置し、瀬戸内のアート文脈を旅する起点・終点として無理なく組み込めます。アートを「置く」島々を巡ってきた旅人にとって、建築そのものが風景になるこの一軒は、滞在の対比として読み応えがあります。
本記事の参考情報
・NOT A HOTEL SETOUCHI 公式サイト — 棟構成・設備・滞在モデル
・三原観光協会 — 佐木島・三原エリアの観光情報
・Wikipedia: 佐木島 — 島の地理・歴史の背景
・Wikipedia: ビャルケ・インゲルス — 設計者の経歴と作品系譜
編集部から
佐木島の斜面に編み込まれた三棟は、リゾートが「眺める」ものから「その一部になる」ものへと移っていく兆しを示している。アートの島々が美術を風景の中に置いてきたとすれば、ここでは建築そのものが島の地肌と一続きになり、滞在者は風景に編み込まれる側へ回る。土・ガラス・瓦という素材の手つき、視野の度数で性格を変える三棟、そして所有とシェアの境界を設計し直す試み——どれもが、瀬戸内という多島海でしか成立しない解だ。次に旅人が問うべきは、こうした建築主導の滞在が、離島の暮らしや風景とどこまで共生できるのか、ということかもしれない。